「人材育成において、日本史上最強の指導者は誰か?」という質問に対して、多くの経営者や経営コンサルタントが、吉田松陰と答えるでしょう。
吉田松陰は幕末、2年4ケ月でいう短い期間で私塾を開き、92名の若者を育てました。
ただ育てただけではなく、彼のもとから幕末から明治維新後、日本を牽引した重要人物を数多く育てたのです。
そして松陰のすごいところは、意図的に優秀な若者を集めたわけではなく、志の高い地元の若者を指導しただけなのです。
しかも、彼のもとで学ぶ若者たちは、藩士の子だけでなく、足軽の子もいましたし、農民や商人の子など身分を問わないものでした。
そんな若者たちが吉田松陰没後、明治政府を担い、今日の日本の基盤をつくっていたのです。
このような例は古今東西の歴史をみても奇跡的ですらあります。
私自身も、吉田松陰の育成方法を知ってから会社役員としても経営コンサルタントとして、人間教育を重視するようになりました。
吉田松陰が育てた弟子は誰か?
ではその顔ぶれを挙げてみましょう。
まず松下村塾の双璧と称えられたのが、久坂玄瑞、高杉晋作です。
吉田松陰の考え方・生き方は、久坂玄瑞を通じて、坂本龍馬にも大きな影響を与えたと言われています。
そして両名に加え、四天王と称された、吉田利麿、入江九一です。
そして四天王は残念ながら生きて明治を迎えることができませんでしたが、彼らの弟分であった伊藤博文と山県有朋はやがて日本の内閣総理大臣となり明治政府を動かしていくのです。
さらに松下村塾出身者には日本大学と國學院大学の創設者である山田顕義もいます。
ではなぜ、松下村塾のたった92名の中から、それもたった2年4ヶ月の間でこれだけ多くの逸材が育ったのでしょうか?
今回は吉田松陰の育成法をテーマにします。
松下村塾の教育理念は?
「松下村塾」
その名のとおり、山口県萩市の松本(松下)村にあった十坪ほどの小さくて粗末な私塾です。
松下村塾は、明治維新を語るとき、吉田松陰を語るとき、決して見逃すことのできない存在です。
松陰が叔父の久保から「松下村塾」を引き継いたときの塾生は村の子供たちだけでした。
その後、口コミで塾生が増えていったのです。
そして松陰の人材育成を知るうえで最も大切になるのは理念(想い)だと思います。
彼は『松下村塾記』を作り、自らの教育理念を以下のように掲げました。
学は人たる所以を学ぶなり
これは「人と生まれたからには、人とはどうあるべきか、この世の中で何をなすべきか、それを学問しながら追求しよう」というものです。
つまり松下村塾で学問をすることは、「自分を磨き、高めること」をゴール(目的)としたのです。
それでは次項より「人材育成の神様」といわれた吉田松陰の人づくり12の方法をご紹介していきます。
松陰流・人材育成法その1 志を立てる
まず吉田松陰が彼らを指導する際に大事にしていたのは「立志」です。
ここでいう立志とは、自分の才能を発揮することが世の中の人々にために役立つという道を彼らに見つけさせ、生涯にわたりその道を志させることでした。
必ずやれるという「大志」がなければ、事は成し遂げられません。
進む道が正しいか正しくないか、学問や仕事がうまく行くか行かないか、それは志を立てたか立てなかったかの違いだけなのです。
だから、武士たるものは、大志をたてねばならないと教えたのです。
松陰流・人材育成法その2 対話する
松陰は常に「対話」を心がけたといいます。
この「対話」というのは、教育の原点、あるいは基本といってもいいでしょう。
東洋でいえば、孔子の「論語」も、弟子との対話・問答で構成されています。
ソクラテスや孟子の教育法を見ても同じです。
この考えが松陰にあったため歴史を学ぶ時間では、『史記』や『孟子』、あるいは『日本外史』などを教材に、彼自ら一方的に話すだけでなく、常に弟子たちとの対話を心がけたといいます。
歴史書の書物のなかから、大事だと思った箇所を抜き書きさせ、「なぜ、そこを書きとったのか」と聞くなどして、対話の素材にしたといいます。
そして一方的に教え込むことはしないで、「これについてはどう考えますか?」という質問を多用し、対話によって、弟子たちが自発的に考えることをサポートしたのです。
松陰流・人材育成法その3 議論する
松陰は、弟子たちが受け身で勉強するのではなく、自ら積極的に学ぶ姿勢を尊重し、彼らのそういう意欲が自然に出るよう意識したといいます。
すなわち、「自己啓発」を促したのです。
松陰が自己啓発を促す上でもっとも重視したのは、弟子たちの議論です。
ときには引っ込み思案であったり、考えが未熟であったり、発言したがらない者がいると、松陰はそういう者にも、自分の考えを言わせよう促したり、ときには補足やヒントを与えたりして、議論の輪に入れたといいます。
とはいっても基本は参加型の議論と討議が中心だったので、特にカリキュラムはなくそれぞれがそれぞれの目的とペース合わせて自由に進められたといいます。
松陰流・人材育成法その4 行動する
吉田松陰は議論よりも行動を重んじる人でした。
なぜなら彼は、自分の身につけた思想や知識は、行為・行動に活かしてこそ、はじめて価値がでると思っていたからです。
つまり、実践してこそ思想が生きるというのが、彼の考えだったからです。
そのため松陰は弟子たちができもしないのに大言壮語をしたり、あるいは知識をひけらかすだけという姿勢を常に戒めたといいます。
ですから松下村塾の塾生は言葉才能より、人柄知識より、行動を第一とする集団となったのです。
松陰流・人材育成法その5 情報を集める
吉田松陰は、現実・現場・現物の情報を大事にしました。
そのため「各地に出向いて、じかに実情を見聞きし、肌で感じとる」ことを重要視しました。
頭で考えるだけではなく、世の中を直視し、現実・現場・現物を見聞することで、生きた知識を学びとる。
そうでなれば、世の中に役立つ学問は身につかないと考えたのです。
松陰は幽閉の身で萩から動くことができなかったため、松下村塾には「飛耳長目」と題するノートが常備されていました。
「飛耳長目」とは、「耳を飛ばし、目を長くして、できるだけ多くの情報を集めること」から名付けたノートです。
これら生きた情報を元に、弟子たちと議論していたのです。
松陰流・人材育成法その6 時流が大事
松陰は時代の動き、社会の変化から目を離さず、トレンドを常に洞察しました。
そこに自らの学問をどう活かせるかを考えたのです。
今の時代もそうですが時代変化を読むのは難しいですし、それへの対応もまた簡単ではありません。
なぜなら失敗したら、取り返しのつかないことになるからです。
だからこそ時事ネタを使い、弟子たちをよく議論させたうえで、最後に自分の意見を述べたそうです。
こうすることにより、時流を読める人材を育てたのです。
松陰流・人材育成法その7 地図を活用する
松陰は兵法の授業のときは、必ず地図を見ながら講義しました。
地図を見ながら戦場や地形や刻々と変化する攻防戦をたどっていったのです。
その中で判断の分かれる重要な場面にぶつかると、それぞれに考えさせ、思うところを議論させました。
このように松陰は歴史を読むときは常に地図と適合し、昔と今の変化、また戦いなどでは敵味方の距離感などを明らかにしながら講義しました。
ですから松下村塾のメンバーは地理に精通していたのです。
兵学者にとって、地形を読むことは作戦を立てるときの基本中の基本です。
松下村塾では常に地図を手元に置いていたのです。
松陰流・人材育成法その8 日常から学ぶ
松陰の講義の仕方が、まったく型式にとらわれなかったと言います。
自分が幼いときに父や叔父に学問を授けられたのと同じように、ある時は畑の草取りをしながら、ある時は米をつく台柄の上で、現在に照らして考え、何をなすべきかを考えさせました。
松下村塾の周辺は畑だったので、草むしりを塾生にもやらせて、塾生は手を動かしながら読書の方法や歴史の話を聞いたのです。
このように松下村塾の学風は、「現場にて全員で学び、考える」というものでした。
松陰流・人材育成法その9 個性を伸ばす
松陰は誰でも個性があり、その人なりの才能があると信じ、塾生たちのそれを見つけ出して光を当てようとしました。
「その人らしさ」を引き出すことを常に考えていたのです。
そのため、松陰はどのような塾生に対しても、まず、その人となりをよく観察しました。
そして、その人間にしっかりと向き合い、理解しようと努めました。
その上で、一人ひとりの個性や人柄を鑑みて、適切な指導を心がけたのです。
松陰は弟子たちに質問を浴びせたり、書物の一節を読ませるなどして、その人物の個性を見つけだそうと努力しました。
そして彼らの個性を伸ばすために、何度も書物を取り替え、その弟子が本気で学びたいと思える書物を一緒になって探しました。
それは弟子たちのそれぞれの個性を見きわめ、才能を開花させるためです。
松陰流・人材育成法その10 長所を伸ばす
松陰は、誰にでも才能が秘められている、と信じて疑いませんでした。
どのような人物であれ、いずれ金銀と輝かせることのできる長所を持っているとの強い信念があったからです。
だからこそ、松陰はそれぞれの塾生たちの長所を見抜き、それを大切に育てました。
そのため杓子定規な規則を作って、それを押しつけるようなことはしませんでした。
あくまでも塾生たちの自覚を待つ、というのが基本スタイル。
つまり「礼法はゆるく、規則をおおまか」が村塾のモットーだったのです。
授業の進め方は全体講義もしますが、基本的には一人ひとり個別にレッスンして、各自の長所を伸ばす個別指導法です。
一方的に押しつけるのではなく、塾生の各人に考えさせ、自覚させ、判断させる。
これが世界と日本の歴史を動かした松下村塾の教育スタイルだったのです。
松陰流・人材育成法その11 読書は手を使う
松陰は年少のころから本の内容を正しく理解して、自分の血肉とするために、どうしたらよいのかを探求してきました。
その結論は本を読むときはそのエネルギーの半分を筆記に費やすことです。
本を読むとき、重要なところを書き写しながら読むということです。
ただ読むだけでは、得た知識はすぐに忘れてしまうからです。だからこそ読書は“頭で読んで、手を使う”のです。
肉体を動かすことで、はじめて心の中に入ってきて、記憶に残ることに気がついたわけです。
そのため、松陰は弟子たちにも「本を読んだら、自分の感じる所を抄録(=抜き書き)しておきなさい」と指導しました。
今年抜き書きした箇所が、来年になればなぜこんな所を抜き書きしたかと疑問に感じる。
またその翌年に抜き書きすると、前年のものがさらに愚かに見える。
つまりそれだけ年々、自分の知識が向上しているという証しになるのです。
松陰流・人材育成法その12 夢を与える
松陰は弟子にこのような夢を語ったと言います。
「長門の国の萩は日本の僻地にあり、久しくここから優れた人物があらわれていないが、いま、その前兆が見られる」と前置きして、「天下の英才はきっと僕の元から育つ」と予言し、松下村塾のある萩城下東外れの松本村を、「小さな村だが、必ずやこの日本国の根幹にならん!」と断言したのです。
弟子たちがこの言葉を聞いてどれほど発奮したか、想像に難くないですね。
松下村塾はこの松陰の予言どおり、優れた人物を輩出して、日本国の根幹になっていったのです。
今の日本の教育に一番欠けているもの
最後に私が思うに、今の日本の教育システムに一番欠けているのは人間教育(徳育)だと思います。
松下村塾以外にも、江戸時代にあれほど数多くのバラエティーに富んだ人材を輩出できたかの理由は、幼児期から10歳くらいまでの間に寺小屋で「読み書きそろばん」と共に、徹底して人間教育が行なわれてきたからです。
その後10歳(小学校4年生)くらいから子供たちの習熟度や個性に合わせて、儒学、武道、兵法、礼法、歴史、偉人伝などを教え始めました。
つまり当時の教育の基本は“本学”を学んでから“末学”を学ぶ仕組みです。
本学とは“人としてどうあるべきか”という“人間学”であり、末学とは、仕事をする上で必要な“知識や技術”になります。
「本末転倒」という言葉があるように、重要なことは“人間学”で、“知識や技術”が上にこないように子供たちに口うるさく指導したのです。
現在の教育は、イコール学校教育であり、その学校教育は、いわゆる一斉教授ですので、先生と生徒とが、個別に全人格をひっさげて、接触する機会が少なくなりました。
日本の教育が、このような一斉教授にとどまるかぎり、真の教育が行なわれることはほとんど不可能ではないのでしょうか。
だからこそ今回の投稿はあらゆる人を教える立場の人に読んでいただき、あなたの部下や生徒や子供たちの眠っている魂をゆり動かし、これを呼び覚ましてほしいと思います。
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